HIROAKI IIYAMA OFFICIAL
 

 

 

 

【拙者、殺陣手付振付担当致し候!】


来る7月1日&2日に、
長野は上田にある拙者のKID時代後輩が率いる劇団
TOKYO BOWZ 公演 「YUKIMURA」 が
上演されます。
場所は上田市文化会館ホール
開演時間は1日(土)18:30、2日(日)13:30です。
拙者は、オープニング振付 &劇中殺陣
(幸村・サスケ・小助・才蔵VS忍者)を 担当しました。
このHPをご覧のお近くの皆さま
・・・ぜひご高覧ください!

 

2006年6月29日(木)


【客演MK-Box芝居終了のご報告】

昨年春から客演し、今回で三公演目となる演目が
好評のうちに幕が下りホッとしております☆
今回もまたまた、アレンジ花籠やミネナルウォ-タ-やBEERにヤクルトジヨアそして枇杷・和菓子
等の沢山な差し入れを戴きまして、ありがとうございました!
〜どうぞご感想をお聞かせください☆

ガンバGETSがんばれニッポン!!(FIFA ワールドカップ)

2006年6月12日(月)


【Jr.からのお知らせ】


本日ワンルド・カップ応援用ユニフォームを着せられましたワン!
・・・飼い主ワン、只今芝居稽古奮闘中らしワン!ワン!
そっちも応援してよろしくワン! ワン!ワン!

2006年5月26日(金)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜悌の巻〜】

 〜 悌の巻 〜

では、いよいよ「八犬士」たちのそれぞれの名前と、
それぞれが持つ水晶の珠から浮き出る一文字に秘められた意味について
ご紹介しましょう!
その一文字は「仁義八行(じんぎはっこう)」とも「人道八行(じんどうはちぎょう)」とも
呼ばれている「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八文字です。
これらの文字は因みに、人間が生きていくうえでの大切な八つの道徳的規範を示したものです。

壱)「犬江親兵衛仁(いぬえ しんべえ まさし)
          (じん)〜思いやり・慈しみ・情け・同情心

弐)「犬川荘助義任(いぬかわ そうすけ よしとう)
          (ぎ) 〜人が行うべき正しい道・筋道・正義

参)「犬村大角礼儀(いぬむら だいかく まさのり)
          (れい)〜人間同士が生活するための決まり・礼儀

四)「犬坂毛野胤智(いぬさか けの ためとも)
          智(ち) 〜頭の働き・理解し判断する力・智慧

五)「犬山道節忠与(いぬやま どうせつ ただとも)
          忠(ちゅう〜嘘のない心・真心を尽くす事・忠義

六)「犬飼現八信道(いぬかい げんぱち のぶみち)
          (しん) 〜嘘を言わない・騙さない・誠・誠実

七)「犬塚信乃戌孝(いぬづか しの もりたか)
          (こう) 〜親を大切にし、言いつけを守る・孝行

八)犬田小文吾悌順(いぬた こぶんご やすより)
          (てい) 〜年上の人に従う・兄姉などと仲がよい


・・・・・・では、これにて、 “八犬伝” ものしり知恵袋を完結いたします。
いかがでしたでしょうか?
少しは皆さまの観劇参考になりましたでしょうか?
ただいまキャストの面々は額に背中に手に足に 汗して稽古に励んでおります。
なにとぞお忙しい時期とは思いますが、 まだまだお席に余裕がございますので、
ぜひとも皆さまお誘いあわせのうえ、 中野ザ・ポケットにお越しください!
重ねてよろしくお願いいたします。


2006年4月18日(火)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜孝の巻〜】

 〜 孝の巻 〜

壱)そして、里見義実は天にかわって、悪臣山下定包を見事討ち果たしました!
  これにより、ついにめでたく里見家は再興されました。
  これで末代までも里見家は安泰!・・・と思われましたが、
  隣国館山城城主:安西景連(かげつら)の度重なる卑怯な策略により!?

弐)・・・さてさて物語りの話はこの辺までと、いたしましょう!
  このあとのお話しは公演をご覧になってのお楽しみに!・・・
  それでは、いよいよ “南総里見八犬傳” の主人公のヒーローたち
  「八犬士」について・・・もう少しだけご説明いたしましょう!

三)昔、里見家にはそれぞれ名字に「犬」の字を持つ八人の豪傑が本当に
  いたそうです。
  「合類大節用集(ごうるいだいせつようしゅう)」という当時の辞書に
  実際に名前が載っているそうです。
  それを著者馬琴はモデルに「八犬伝」の主人公=八人の犬士たちを
  登場させました。

四)八犬士の由来は、ご存知「伏姫(ふせひめ)と八房(やつふさ)」の話から
  はじまりますが、それについては著者馬琴は語っていませんが、
  長年の詳しい研究の結果、イメージは「八字文殊八大童子(はちじもんじゅはちだいどうじ)」が
  設定の背景にあることがわかってきたそうです。

五)「八字文殊」とは、獅子王という唐獅子に騎乗して、
  八字の呪文を刻んだ八つの玉を身の回りに携えた文殊菩薩のことです。

六)「八大童子」とは、その文殊菩薩を母のように仰ぎ見つつ、
  文殊のまわりに存在するそれぞれ唐獅子に乗っている八人の童子たちです。

七)伏姫を霊なる母として、関八州のあちこちに人知れず散在する八犬士たちであったのです。
  また身体のどこかに持つ牡丹形の痣(あざ)は、
  唐獅子と牡丹という縁語から生じたらしいとの事です。

八)八犬士が持つ白い珠=水晶の瑞玉は、八字文殊菩薩の持つ八つの聖玉(せいぎょく)が
  モデルらしいとの事です。

                          ・・・・・・つづきは、〜悌の巻〜で


2006年4月12日(水)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜信の巻〜】

 〜 信の巻 〜

壱)金椀八郎孝吉は、村人に竹やぶから竹を沢山切ってこさせ、
  竹槍を作ってみんなに配りました。
  そこへ村の長老らしい庄屋さんがやってきました。
  「この近くの東条城は小さい城で守りも手薄ですので、
  この城をまずは攻め落として武器を手に入れてはどうで庄屋?」
  ・・・それを聞いて、孝吉にはある策が閃きました。

弐)そしてしばらくの後、ドンドンと東条城の城門が叩かれました。
  「あのう、夜分申し訳ありません。
  近くの村の者ですが、泥棒を捕まえましたので連れてまいりました」
  と庄屋は言いました。
  すると眠い目をこすりながら門番が城門の窓越しに、
  「なんだぁ〜泥棒くらいで!」
  「実は、この男は元神余の家来、金椀孝吉と名乗っております。」
  と、門番に縄でグルグル巻きした男を突き出しました。
  すると門番は、
  「よ〜し、判った。門を開けてやるから中へ連れて来い!」

参)門が開くと、グルグル巻きの孝吉はパッと縄をふりほどくやいなや
  門番に当て身一発!・・・それと同時に里見義実ら農民軍の総勢
  百五十人がドッと一挙に飛び込んでいきました。

四)城のなかをよく知っている孝吉は、村人たちを引き連れて、
  すぐさま第二の門へ飛び込んでいった。
  そして橋の上に飛び乗った里見義実は、大声で叫びました。

五)場内の者 よ〜く聞け、われらの敵は山下定包ただ一人である。
  手向かいしなければ一切害はくわえん、安心して出て来い!」
  ・・・すると、ゾロゾロと場内の兵たちが出てきました。

六)やがて夜が明け、孝吉は城内の武士たちを皆大広間に集めて、
  義実に引き合わせて言いました。

七)「里見義実殿の下に力を合わせて、主君の敵討ちをしよう!」
  定包の醜いやり方を知っているので反対する武士はいませんでした。
  こうして、東条城にいた二百五十人が義実の家来になり、
  農民軍と合わせて四百人ちかくになりました。
  そして、義実は言いました。
  「この東条城の事は、三日の内にこの安房の国中に知れ渡るであろう。
  すると定包はきっと城の守りを固める。
  安西景連や麻呂信時も定包を助けるようになるやもしれない。
  昔から“先にすれば人を制し、遅れる時は制せらる”という。
  そこでわが軍は、今夕城を出て景連の居城:滝田城に向かって進軍する!」

八)夜半出立。真っ暗な道を音もなく、すばやく進む里見軍。
  夜通し歩き続けたのでした。
  その間に十人、二十人、五十人と農民や野武士たちが列に加わってきて、
  里見軍は、朝陽が昇るころには、なんと・・・千人ほどの兵力に
  膨れ上がっていました!

                          ・・・・・・つづきは、〜孝の巻〜で


2006年3月31日(金)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜忠の巻〜】

 〜 忠の巻 〜

壱)金椀八郎孝吉も、神余光弘の近習でありました。
  玉梓に心を奪われている光弘を見て戒めたが聞き入れられず、
  そこで城を出て剣の修行をする事にしました。
  そして五年の歳月を経て安房に帰ってみれば、
  城主:神余光弘は山下定包に騙し打ちにされたと聞き、
  ひそかに主君の仇を討とう!と定包をつけ狙っていました。

弐)孝吉曰く、「すると、この安房へ里見家の御曹司が来られたと聞き、
  これぞ天の助け!とお捜ししておりました。
  お目にかかれてこんなに嬉しい事はございません!」

参)孝吉は、義実に滝田城を攻め滅ぼして定包の首をとっていただきたい!
  と懸命に頼むのでした。義実は大きく頷いたものの・・・味方の人数は、
  今はわずか四人!この人数でどうやって城を攻めるというのか?・・・
  すると孝吉は、「実は、わたくしに考えがございます!」と答えました。

四)そして夜中になり、孝吉は寺前の空き地に藁(わら)を山のように積み上げて、
  それに火をつけました。炎が夜空高く舞い上がりました。

五)寺ではその火を見て驚き、鐘をガンガン鳴らしました。
  村人たちも目を覚ました。
  外を見ると、寺の方角の空が真っ赤に染まっていました。

六)「たいへんだ。お寺が火事だ!」村人は手に手に、鍬(くわ)や鋤(すき)などを
  引っ提げて、寺に駆けつけました。
  およそ百五十人もの農民が集まりました。
  お陰で火もすぐに消え、お寺は無事でした。
  「なんだい、なんだい、たいした火事じゃないのに・・・」と村人たちがブツブツ
  話していると、孝吉が大きな声で話はじめました。
七)「わたしは、元神余光弘が家来、金椀八郎孝吉と申す者。
  夜中に騒ぎを起こして申し訳ない。
  しかしこれは、村のみんなに集まってもらい、ある話をするが為なのだ!」と、
  山下定包の悪巧みを話して聞かせました。
  そして、里見義実の下に力を合わせて定包を滅ぼそう!と訴えました。

八)村人たちは、もともと定包を恨んでいたから大喜び!
  ・・・義実が姿を現すと、「えぃえぃ、オー! えぃえぃ、オー!」と、
  時の声があがりました。
  ・・・こうしてたちまちのうちに百五十人の農民軍が出来たのでした。

                            ・・・・・・・ではつづきは、〜信の巻〜で

2006年3月27日(月)

 

【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜智の巻〜】

 〜 智の巻 〜

壱)里見義実(さとみ よしざね)は、結城合戦の折、
  結城氏朝(うじとも)とともに結城城に立てこもった里見季基(すえもと)の子。
  その落城時、父季基の命により老臣ふたりとともに脱出し、安房の国へ向かいました。
                                              ・・・・〜仁の巻〜より

弐)その安房の国の半分の領地を持つ平群(へぐり)と長狭(ながさ)の領主:
  神余光弘(じんよ みつひろ)は、悪臣山下定包(さだかね)の悪しき計略にはまり
  落命し、定包がまんまと滝田城城主となりました。

参)山下定包は身分が低い武士でしたが、玉梓のごきげんをとるのがうまいので出世して、
  光弘のそばちかくに仕える近習(きんじゅう)という役目を務めていました。

四)光弘にも、うまい事をいって信用されている男でした。
  が、農民たちからはひどく恨まれていました。
  それは城主に内緒で高い年貢を納めさせたり、苦しい仕事をいいつけたり、
  反対するものを容赦なく牢屋に入れたりしていたからでした。

五)一方、里見義実はまる二日間、館山城城主:安西景連(かげつら)の命により
  鯉を求めて釣竿を担いで川から川へと歩きまわっていました。
  だがまったくもって釣れず、そして、いよいよ約束期限の三日目となりました。
  義実が懸命に釣っていると、ゆっくり近づいて来て竿の先を覗きこむ男がいました。

六)しばらく見ていた男は、「何を釣っているのですか?」と聞いてきました。
  義実が「鯉を釣っている!」と答えると、その男は笑いながら言いました。

七)「それは無理な事です。この安房の国には、鯉はおりません。
  昔から何故か一匹もいないのです。」と答えた。
  そして、安西景連に命ぜられたと話すと、
  「出来ない事を命じたのは、あなたを殺す為・・・安西景連という男は
  そういう人間です!」ときっぱり言うのでした。

八)「わたしは里見義実だ。そなたの名を聞かせてくれないか?」と尋ねると、
  男は飛び上がって平伏し、答えました。
  「たぶん、里美家の御曹司とお見受けしておりましたが、まことに失礼いたしました。
  わたくしは元滝田城城主:神余光弘の家来で、
  金椀八郎孝吉(かなまり はちろう たかよし)と申します!」

                       ・・・・・・ではつづきは、〜忠の巻〜で!

2006年3月21日(火)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜礼の巻〜】

 〜 礼の巻 〜

壱)作者の曲亭馬琴は、この作品が最初に出版された文化十一(1814)年の時には、
   すでに四十八歳でした。
   そして完結したのは、なんと七十六歳の時・・・なんと二十八年間もかかりました。

弐)完成にいたるまでの馬琴の苦労はたいへんなものでした。
   この長い歳月の為、耐えられずに本屋(出版社)が何軒も変わりました。

参)江戸の本屋で引き受け手がなくて、大坂の本屋に出版させた事もありました。
   また、助手の役割を務めてくれていた長男宗伯(そうはく)
   死去してしまうという事もありました。

四)それよりも、もともと目があまり丈夫でなかった馬琴の目が、
  ついに失明してしまうという事になりました。
  目が見えなくては文字は書けません。
  文字が書けなければ、小説は書けません。
  さすがの馬琴も、もう駄目かと思ったようです。

五)しかしその時、嫁(宗伯の妻)のお路(みち)が口述筆記を申し出てくれました。
  が、当時の女性には学問不必要とされ、
  難しい漢字は嫁もしなければ、書く事もできないのが普通でした。

六)文字の読み書きの出来ないお路を使って、
  目の見えない馬琴がこの長い長いそれにとても筋の混み入った小説を
  書かなくてはならなかったのです。
  何度もお互いに、もうできない!もうやめたい!あきらめよう!と思ったか
  わからない事でしょう。

七)でも、馬琴はあきらめませんでした。
  書き始めた小説をちゃんと書き上げる事に執念を燃やしました。
  そして、お路を熱心に教育し、挫けかかるのを励ましながら
  長い長い年月の果てに、ついに天保十三(1842)年
  「南総里見八犬傳」は完成したのでした。

八)完成した時のふたりの悦びようは、どんなものだったのでしょうか?
  もう完全に目の見えない小説家馬琴と、
  それを支え続けたろくに文字の読み書きも出来なかった今は亡き息子宗伯の嫁お路
  ・・・まさに瀧澤家の一家を挙げての大仕事であったともいえましょう。

                      ・・・・・・ではつづきは、〜智の巻〜で!

2006年3月15日(水)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜義の巻〜】

 〜 義の巻 〜

壱) 里見義実(よしざね)が舟で海を渡った当時の安房(あわ)の国は、
   北は山、他三方は海に囲まれた房総半島の南にある為、
   まるで島のようなところで住民が少なかった。
   そこで、はるか西の阿波(あわ)から人々を移り住ませていた為、
   ここを「あわ」と呼ばれるようになったといわれています。

弐) そのころの安房の国には、三人の武将がおりました。
   国の半分の北部分の領地を持つ滝田城城主:神余光弘(じんよ みつひろ)
   残りの半分の東側には平館(ひらたて)城城主:麻呂信時、
   西側に館山城城主:安西景連(かげつら)でありました。

参) 結城からの落ち武者:里見義実は、館山城を訪ねました。
   十九歳の若武者でした。
   城主安西景連は、「味方になる証明に、神に供える鯉を釣ってき来てもらい鯛・・・
   三日のうちに必ず!」と言いました。
   義実は首を捻りましたが、結局約束しました。
   「中国では、龍門という所の滝を登りきった鯉は、
   龍になるといわれている。白い龍に誘われて、この安房に来たがここで鯉を釣るのも
   何かの巡り合わせ!というものであろう。」と、家来たちを説得しました。
  
四)が、それは無理な難題でありました。
  そのころの安房の国には、鯉がいなかったらしいのです。
  何故かむかしから一匹もいないといわれていました。
  つまり、出来ない事を命じられたのです!・・・安西景連の策略でした。

五)一方、滝田城城主:神余光弘は朝から酒ばかり呑んで、
  政事をほうったらかす毎日を過ごしていました。
  そしてその傍らには、いつもたいそう美しい奥方の
  “玉梓(たまずさ)が寄り添っていました。

六)“借りてきた猫のように”・・・最初はおとなしくやさしかった。
  “猫をかぶる”・・・本性を隠しておとなしそうにしていた。
  “猫可愛がり”・・・何でも「よし、よし」と聞き入れる。
  ・・・そんな “猫づくし” の玉梓と神余光弘との関わりでした。

七)やがて、政事をはじめ、何でも口を出しするようになりました。
  それを見かねて、光弘が戒めるようにもなっていきました。
  ・ ・・そんな玉梓に、ある計略の魔の手が!?

八)美しく妖しい魅力を武器として男を手玉にとる毒婦や
  私利私欲で動く悪臣などが大勢でてきて、
  絶対的正義のヒーローである “八犬士” たちを苦しめ窮地に追い込む・・・
  が、「善を勧め、悪を懲らす!〜勧善懲悪(かんぜんちょうあく)〜」こそが、
  “南総里見八犬傳”なのでありまする。

                        ・・・・・・ではつづきは、〜礼の巻〜で!

2006年3月9日(木)


【 “八犬伝” ものしり知恵袋 〜仁の巻〜】

さてさていよいよ弥生の月となり、わたくしが殺陣手付&指導並びに出演する
「“玉梓〜TAMA-ZUSA”」の稽古も本格的になってまいりました。
今回の題材は、なんと「南総里見八犬傳」。
言わずと知れた日本古典文学史上最長を誇る物語でありまする。
原作は、創作年数二十と八年間・・・全九十八巻という超〜大作!でございまする。
有り余る程の沢山のエピソードを、希望上演時間内にどう収まるのか?
玉梓をタイトル・メインにしたどんな展開になるのか?
この作品の持つ世界をわたくしの持つ殺陣技術&発想で表現出来るのか?
等など、どのような仕上がりの舞台になるのか?
・・・毎日毎日楽しみな稽古が続いております。
・・・どうぞ、ご期待くださいませ!
ではご観劇いただく前に、わたくしが集めました資料のなかから皆さまへの、
チョットお得でとってもやさし〜く・わかり易〜い・「八犬伝」のものしり知識を
このホーム・ページ上で・・・お楽しみください!

 〜 仁の巻 〜

壱)原作著者=曲亭馬琴(きょくてい ばきん)は噺家さんではなく、ペンネームで、
  本名:瀧澤解興邦(たきざわ とくおきくに)
  生涯著作総数は、なんと二百点を超えるといわれる大文豪なのです。

弐)この作品は、文化十一(1814)年に第一巻が刊行されました。
  十九世紀の江戸時代は大長編小説を「読本(よみほん)」と言っていました。
  当時の文学としてはたいへん珍しい、歴史に基づいた創作ファンタジー小説でした。

参)時は、今から五百五十年以上も前の室町幕府時代から物語は始まります。
  当時の日本の国は六代足利幕府将軍:足利義教(よりのり)公が京で治めていました。

四)東の地方は、鎌倉の関東管領:足利持氏(もちうじ)が護っていました。
  が、将軍と持氏の仲はたいへん悪く、ついに合戦となってしまいました。
  この合戦を「永享(えいきょう)の乱」と言いました。

五)合戦に敗れた持氏の一族は、結城(茨城県)の結城氏朝(うじとも)を頼って
  結城城に逃げ込みました。その持氏公の遺児を守ろうと馳せ参じた多くの武将の中に、
  里見季基(すえもと)&義実(よしざね)親子がいました。

六)この戦い「結城合戦」は三年にも及び、篭城を続けていた結城軍は陥落寸前となって
  いきました。そんな折、里見季基は、子義実を呼び、
  「おまえは落ち延びて、里美家再興を計れ!」と篤く説得し、
  家来二人とともに城を抜け出させました。
  そして三人はひたすら南へ南へ歩き続けました。

七)ついでに三浦海岸まで来てしまった義実らには、その先にはもう海しかありませんでした。
  がそこに運命的な出会いが!?・・・にわかに黒い雲が空いっぱいに広がったかと思うと、
  まもなく黒い雲の切れ目からそれが現れました。
  ・・・巨大な“白い龍”でした!

八)当時は、「“白い龍”を見ると、よい事がある!」と信じられていました。
  これは尊き神のお告げだ!と義実は信じ、
  龍が飛んで行った海の向こうの国、
  南総安房(あわ)の国へ行く!と決めたのでした。
  ・・・ここから物語の舞台は、今の千葉県房総半島の南に位置する安房の国と
  なるのであります。

   ・・・・・・・・・ではつづきは、〜義の巻〜で!

2006年3月3日(金)


【福は内〜!!!】

♪福は内〜、福は内〜!
・・・皆さまにも沢山福が訪れますように・・・(#^.^#)

福は内!♪

2006年2月3日(金)


【警視庁公安第一課潜入捜査官:上杉剛三からの任務無事完了報告】

お蔭さまで無事に「高度3万フィートの完全犯罪」の客演を 終えることが出来ました。
〜また沢山の差し入れ品や生花&バルーン等を戴きまして感謝に堪えません。
・・・どうか次回公演の舞台でまたお会いできますよう願っております。
・・・ありがとうございました!

2006年1月30日(月)


【 「今が旬syu〜n」制作後記 {下の巻} 】

・・・ここまでは正に吉凶の凶なる出来事ばかりのようで・・・やはり今回のライブは
行わない方がいいのでは?!・・・浅草寺のおみくじも“半吉”でした
・・・そんな中で自分に勇気をくれたのは、ひたむきに剣塾の稽古をするメンバーの
篤い志とライヴの準備を支えてくれている方々の熱いご支援でした。
それに助っ人を快く受けてくれた方々・・・依頼即快諾をしてくれた「剱伎衆かむゐ」の
“グッチ”こと河口博昭君、そして磯部弘君は、共に恩師がKIDの東由多加氏。
命日の4月20日に思い出の地〜原宿竹下口で呑み語ったのがきっかけで
ライヴ参加が決まりました。
まるで東氏が演出したかのように・・・そして、あの言葉がまた脳裏に心に甦りました・・・
「ひとりの人が旅立ち逝くと、必ずその代わりにしっかり地に根をはり足元を固める人が
出てくるから、決して悲しい事ではないのだよ」
・・・東氏のドキュメンタリーTV番組の中の言葉です。
その言葉に心打たれ、自分は5年前に「ばかはしななきゃなおらねえ」を自主制作したのでした・・・
そして、不思議なことに義母の百日忌が済んだ頃から、
いろんな事や閃きが吉なる出来事となっていきました。まずは、

*ライヴ・タイトル=「今がSYUN〜!?」から「今が旬syu〜n」へ
            ・・・誰しもが判りやすく読み取りやすく見やすいタイトルでなくては!?
            と思い直しました。

*サブ・タイトル=難航して決め兼ねていましたが、
            「ながした汗と涙の分だけ、人は優しくなれるとか・・・」に!
           ・・・[俳優] という字は、人に非ずぐらい人に優しくないと出来ない職業という
           意味では?!と思い立ちました。

*チラシ・デザイン=“これまでの旬 ”と “今が旬” が一目でわかる内容にするには写真かな?!
            ・・・ファンの方からいただいた過去の出演舞台写真の中からと
            押入れをひっくり返して選びました。

*スタッフの皆さん=低予算の提示にも快く、承諾いただきました。

*舞台背景の映像=関が原合戦屏風絵等の借用許可や梵字文献入手等
              ・・・担当者のたけうち氏&じぶんの菩提寺副住職のご助力にて
              実現いたしました。

*ラスト・シーンの「雪」=当初はドライ・アイスのナイヤガラ落としでしたが、
               舞台監督小原氏の助言で「ドライ・アイスはすでに[ばかは〜]で使用済み
               新しい事しようよ、コストは高いがスノーマシンにしよう!
               ・・・経費は俺がなんとかする!」
               〜小原氏はKIDのすべての舞台美術製作をしていた
               千曲舞台工藝の社長さんです〜
               脚本も当初 吉継の自決シーンで終幕の予定でしたが
               イマイチ納得していませんでした。がこの事により、
               吉継の最終台詞「今年の雪は、もう見れんのう!」 に変更となり
               私自慢の会心のラスト・シーンが生まれるきっかけとなりました。

*ダンスの振り付け=偶然中野ザ・ポケット前 内金支払いに行ったその帰り道、
              振付師中村陽子嬢と再会しその場で依頼し快諾してもらう!
             ・・・以後稽古場確保にご助力いただく事ともなりました。

*衣裳=御厨氏の助言から「小物製作はプロ依頼ではなく、身内で出来る方を探す方が得策!」
      ・・・とそこに、剣塾メンバー紹介の北井洵子嬢が快諾してくれ〜
      吉継の頭巾&仇討の手甲&メンバーの着物の背+鉢巻にある梵字書き等々の
      衣裳全般をお手伝いいただきました。

*巴役=当初予定していた方が都合でNG!となりました・・・とそこに、
      剣塾メンバーの紹介で殺陣を習いたい!と現役プリマの末広亜古嬢が参加〜
      数回の稽古後に出演依頼すると、これも快諾戴きました。

*稽古場=当日急に稽古を許可してもらえぬ会場がありました。
        しかも、スタッフの皆さんと初めて合わせ通し稽古をする大事な日でした。
       取り合えず近くの会場を探し捲る自分でした。
       そこに携帯が鳴りました・・・また凶なる知らせ!?
        ・・・でも今度のそれは天使からでした・・・
       「ここから3駅ほど先にある私の知ってるダンススタジオが空いてます!」
       〜末広嬢からでした。それから即皆で今ある車に便乗して移動。
       無事最初の通し稽古が出来ました。
        ・・・正に捨てる神あれば拾う神ありを体感した瞬間でした。

*小道具=「ペルーの野球」の善太のシーンを楽しくしたい!と考えて、
       ある日 原宿や下北沢のShopを彷徨っていました
       収穫GET=子供用黄色いブローブ&大きな野球ボール&光るボール
        &なかなかないNYのタンクトップ&格安のズック
        &浩吉の浮世絵雪駄サンダル等〜感激の出会いの連続でした。
       「仇討」の黒編み笠/GOSHIEN[すずや]の大将から汚れた舞踊用花笠を
        無料で提供していただき、黒に自前塗装しました。

*脚色=ある日自分に関わり、すでに亡くなられた方を指折り数えたら、
      ちょうど9人になりました・・・そこで感謝を込めて、
      善太の野球チームのメンバーのイメージをその方々にいたしました。

*構成=当初ラストは「大谷刑部少輔吉継」ではなく、よさこいソーラン風殺陣披露2曲で
      お祭りのような終幕の予定でした。
      が、どうも今ひとつな構成だと悩んでおりました・・・
      KIDと関わって学んだ事&今回の義母逝去で得た事・・・
      結論はやはりラストはお祭りモードではなく、涙の大感動にすべきだと確信しました。
      常々涙がながれると人の心に勇気が湧いてくると信じる自分は迷わず、
      武将 [大谷吉継の悲話] を選びました。
      そして、よさこいソーラン風殺陣披露は「仇討」の中の1シーンに入れ込みました。

*脚本=やはり「大谷刑部少輔吉継」のラストに悩んでいました。
      哀しいだけでは観てくださる方が辛すぎるのでは?!
      ・・・そんなある日脳裡にうかんできたのは、義母の大往生でした。
      臨終時には二十名近い身内の者がベットの周りに集まりました。
      無意識に自分は義母の両足を両手で握って祈るように見ていました。
      誰もが初めて見る、人が黄泉の国に旅立つ瞬間だったそうです。
      口から食べ物を摂取できず衰弱し呼吸も乱れていたその義母がなんと、
      しっかりと両の眼を開き、正に最後のお別れの挨拶をするかのように
      しばし皆をゆっくり見渡し、す〜ぅと吸い込まれるように瞼を閉じ旅立ちました。
      その姿を自分は真正面で見ることが出来ました。
      それはそれは、やさしく潤いキラキラと輝いた美しい目でした
      ・・・もうライヴをご覧になった方はお解かりでしょう〜
      不治の病 [ライ病] に冒された吉継が最後に目が開くシーンは、
      この事をヒントに生まれました。

などなどこんなエピソードが今回のライヴにはありました。
ご覧になった方には、ネタ明かし話的楽屋落ち愚痴言い訳コメントで申し訳ありません。
何故かこんな出来事があった事を話さずにはいられませんでした。
これも事故なく無事に終えた安堵感からかもしれません。
相変わらずの我が侭放題をお許しくださ〜い。
また、わたくしの今後の活動に関する希望ご報告は次のとおりです。

 まずは、今回のワンマン芝居ライヴ「今が旬syu〜n」はKID当時をご存知の方には、
たいへん好評でございました。
そこでご覧いただけなかったKID当時を懐かしみたい方々や、もう一度ぜひ観た〜い!という方の
ご要望がありましたら、その皆さまの地元に私が出前ライヴいたしま〜す!・・・
どうぞご遠慮なくご相談ください。
ご予算に応じた企画で対応させていただきます。
ご一報を心待ちにしておりま〜す。

 また殺陣ワークショップ“剣塾”としても今後は、

    「Japanese Sword Action Company 剣(つるぎ)

としても活動した〜い!と願っております。
「殺陣ワークショップ」は勿論の事、
「どなたにでも解りやすい殺陣講座」や「一般市民の皆さまと一緒に行う殺陣披露」、
神社等での「奉納演武」、寺院や城址等での野外殺陣ライヴ「イメージ殺陣」&「ダイジェスト殺陣」
他各地祭事での各種イベントでの殺陣演武披露やストリート殺陣ライヴ等など
活動の場を全国各地津々浦々にまで拡げていきた〜い!と願っております。
どうか皆さまの地元近くで、我々が参加できそうな企画をもしご存知でしたら、
ぜひお知らせください。

 世界に誇る日本芸能たる “殺陣(たて:太刀まわり)” をもっとたくさんの日本の皆さまに
認めていただきたく活動していきたい!と言うのが
私の 「これからの旬」としての意気込みなのでございます。
これからも精進してまいる覚悟でおりますので、どうぞこれからも末永〜く温かなお心で
 ご支援しただきますように重ねてお願い申し上げます。

2005年10月11日(火)

 

【 「今が旬syu〜n」制作後記 {上の巻} 】

 この度、私のワンマン芝居ライヴ「今が旬syu〜n」をご覧いただきました皆さまには
誠にありがとうございました。
お陰さまで大勢の方々にご来場いただき、好評のうちに幕を下すことが出来た事は、
感謝に堪えません。
また出演者全員然したる怪我なく無事に千秋楽を終えた事も うれしい報告でございました。
そしてなによりこのライヴを支えてお手伝いいただいた皆さまには心からお礼申し上げます。
・・・思い起こせば、このライヴにはいろんな出来事や別れと出会いが絡み合っての
準備期間10ヶ月でございました。

 それは、昨年12月28日の剣塾忘年会から始まりました。
稽古終了後に自宅で行おう!とロッカー室のシャワーで、
稽古の汗を流している時から始まりました・・・ 携帯が鳴りました・・・自宅からでした。
忘年会の支度をしていた義母が倒れた!という知らせでした。
即中止を告げ、帰宅し、救急車による病院への搬送に寄り添いました。
すぐに意識を取り戻した義母はCTでの結果も良好で点滴治療のみで一旦帰宅し、
翌日に外来での検査となりました。
義母も楽しみにしていた忘年会は、新年会で!という事になりました。
以後2回の発作発生により、明くる年1月19日東京医大病院に検査入院することとなりました。
以後、女房と妹と知人による交代看護が始まり、義母を交えた呑み会(新年会)は
またも中止となりました。
精密な検査が進むうち、脳に12箇所の癌移転らしい腫瘍と
胃にスキルス性癌らしい痕跡が確認されました。
薬投与による治療と癌の原発箇所発見の為の検査が続きました。
そんな中、2月4日家族への検査報告がありました。
その結果、癌細胞は直接発見されていないものの、
現状の病状からすでに末期癌の疑いがあると報告されました。
なおもより正確な判断を得る為の検査は続き、3人の看護も交代で続けられました。
自分は愛犬JR .の世話と風呂掃除&ゴミ出しが担当となりました。
そして、2月16日家族&親戚代表を交えた最終面談が主治医と行われました。
結果は9割強の確率で末期癌、余命6ヶ月。
厳しいものでした。
が、本人には告知しないようにしよう!と家族&親族代表の意見は一致していました。
それからは、本人の体力に合わせた薬投与の治療に変り、看護も密となっていきました。
自分は4月の客演舞台の稽古も始まりました。
義母は親戚や知人の皆さんの見舞いにも励まされ、
退院をめざして約3か月に及ぶ入院生活を送りました。
そして、4月6日退院・・・自分は劇場入りの朝でした。
桜が満開だったので帰りがけに神田川沿いの桜並木道で花見をし、久しぶりの帰宅となりました。
その時に撮った写真に写ってる義母が選んだ服は、自分が以前プレゼントしたものでした・・・
この日から3人による24時間交代での在宅看護闘病生活がはじまりました。
男の自分はちょっとの手伝いとただ見守るだけ・・・
すでに義母は病院生活の影響で歩行が付き添いなしでは出来なくなっていました。
最初は2階自室までなんとか階段を上る事が出来ましたが、やがて歩行が困難となり、
自分が義母を抱き上げてなんとか1階へ移しました。
それっきり介護ベットに寝たきりの状態となりました。
義母を抱き上げたのはそれが初めてでした・・・病状は1週間ごとから、3日ごと、1日ごとと
急速 に変化していきました。
自力では切れなくなった痰の取り除きや高熱を下げる為の処置等など病状の悪化とともに、
口からの食事にはなんと2時間も掛かるようになっていきました。
元気になりたい!と必死に食べているようでした。
やがて1日の感覚が昼夜逆転し、昼眠り、夜中じゅう目を覚ましてるといった状態が起こり、
交代での不眠不休の看護が続きました。
本人にとっても、看護している者にとっても、見守る者にとっても、
まさにそこは戦場となっていきました・・・その間、もちろんライヴの準備はSTOP状態。
このままの状態が続くようなら、ライヴは中止しなくては!
・・・義母への一日も長く生きてもらいたいと願う一心の看護を目の当たりにしていた自分の
正直な心境でした・・・義母本人も必死に病と闘っていました。
そんな病状の身でも気配りをしているようでさえもありました。
周りの者が笑って欲しい!と言うたくさんのギャグに答えるかのように、
やさしく微笑みをうかべることもありました。
そしてその日がやってきました・・・
平成17年5月21日午後6時50分、多くの親戚の方々と家族に見守られながら
大好きだった自宅から、安らかに旅立ちました。   

 そして通夜の大雨のなか、びしょ濡れになって葬家のプラカードを持って角々に立っていたのは、
剣塾塾生のメンバーでした。
・・・葬儀を終えてからの出来事については、次回といたします。

2005年10月8日(土)

 

ライヴまであと一ヶ月をきり、稽古にも一段と熱が入りはじめました。
ぜひご期待ください。

尚、ライヴ内容報告 《第5弾号外》として〜Ticketご購入済みの方に限り、
ライヴ前日の9月30日(金)18:00より行います予定の
最終舞台通し稽古 にご招待いたしま〜す!
お時間の都合がつく方はぜひお申し込みください。

又まだまだお席に余裕がございますので、
皆さまお誘い合わせの上、お申し込みくださいますよう宜しくお願いいたしま〜す!!

2005年8月30日(火)




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